2017.2.6 古写真・観光絵葉書にみる福博景観史 
研究解読が必須の絵葉書

 手軽で安価に製作でき、販促ツールや記念品になる絵葉書は、近年まで観光土産だけでなく様々な場面で製作発行されました。無数に発行された絵葉書には当然ながら目録は無く、どんなものが発行されたかは未だに全容解明ができていません。そのためにはまず、都市発展や観光・景観の貴重な記録でもある絵葉書のリスト化が必須です。博物館や図書館に収蔵されている資料に加えて、私のような在野の研究者や蒐集家が所蔵している資料も含めての目録化と総合的な研究が必要だと考えています。
 今回は、私がこれまでに蒐集した絵葉書の中から、既存の刊行書籍の記述では判断できない絵葉書と、その理由の一端をご紹介します。(文中の絵葉書・古地図はすべて筆者所蔵)

 

場所の特定や撮影時期に関する悩み

 絵葉書には宛名面や写真面に説明記述があるものが大半ですが、中には発行元や「福岡市昭和8年」などの記述しか無いものも少なくありません。
 最初に紹介する商店街夜景(ネオンサイン)の絵葉書もそのひとつで、川の字をデザインしたネオンサインが見えることから博多「川端商店街」であると推測しました。現在は明治通りから南、櫛田神社南門前まで続く「博多川端商店街」が残っていますが、博多リバレインがある下川端地区の再開発が行われる以前は、リバレイン一帯に下川端商店街や寿通商店街などがありました。元々の「川端町」は昭和通り側の旧唐津街道(当時の博多のメインストリート)寄りで、商店街は明治中期以降に南へと延びたようです。

 

昭和10年頃の川端通商店街の夜景ネオンサイン

 

 現在出演しているNHK福岡「はっけんTV」のコーナーで、この絵葉書を紹介する事となり、改めて写っている情報から場所を特定しようとしたのですが、ディレクターさんが現在の「博多川端商店街」を構成する2つの商店街組合に尋ねても、年代が古すぎて判断できる方がいないとの返答でした。戦後まで明治通り北側がメインの商店街だった事から、私はこの絵葉書の場所が現在の博多リバレイン付近と解説したのですが、番組オンエア後も気になって絵葉書発行時期に近い年代の住宅案内図を元にして、改めて写っている店名と照合しました。
 すると、この絵葉書発行当時は明治通りの南北両側に同じ名称の店舗も多く(昔は同じ町内=下新川端町=大黒流、本店と支店)1軒ずつ丁寧に照合したところ、現在の川端中央商店街(門田提灯店や仏壇のはせがわのある付近)である事が判ったのです。
 お店は入れ替わりが激しく、開店からわずか半年ほどで閉店するお店は今でも珍しくありません。写っている情報を読み解く難しさを実感しました。
 次の絵葉書はつい最近入手したものですが、同じ場所を写した100枚近くの絵葉書には無いものが写っていて、撮影時期の特定を急いでいるものです。

 

昭和12年頃の西大橋の景観

 

 那珂川に架かる西大橋を写した絵葉書は数多く、一見すると何の変哲もないものですが、左端に映るグリコの広告塔に釘付けになりました。広告塔はメインストリート沿いの一番目立つ場所に設置されて人目につくため、多くの過去発行の書籍や文献に情報が出ています。福助足袋や森永のように社史に広告塔の記述があるものも珍しくないのですが、私はグリコの広告塔が福岡にあったという情報を持っていませんでした。
 絵葉書を詳しく観察すると、画面中央には天神交差点角に昭和11年に開店した岩田屋も見えます。西大橋も同じ年に架替が完了しており、グリコの広告塔と合わせて当時最先端の景観が1枚の構図に収まっていることが判ります。私自身も自分で都市景観写真を撮り続けているので判るのですが、この絵葉書はこれ以上の構図はない素晴らしい景観記録写真だと思います。

 

店舗移転や名称変更による混乱

 次の絵葉書は昭和8年頃の天神交差点付近を写した絵葉書です。中央奥に写っているのは松屋百貨店(ミーナ天神の場所)で、屋上には当時設置されていた航空灯台も見えます。画像左は東邦電力ビル(天神ビルの場所)で、松屋に続く通りは現在の渡辺通りであることが判ります。

 

昭和8年頃の天神交差点付近

 

 ところが昭和40年代の天神をご存知の方にこの絵葉書を見てもらうと、多くの方が「明治通り」だと答えるのです。その理由は画面中央付近に写っている「木村屋パン」です。天神にあった木村屋は戦前は渡辺通り側にありましたが、福岡市の戦災復興計画に沿って渡辺通りが現在の幅に拡幅されることとなり、木村屋は明治通り側へ移転しました。移転した場所には現在も「木村屋ビル」が建っており、移転後の場所はすぐに判ります。絵葉書が発行された戦前当時をご存知の方は少なくなり、一見すると勘違いしやすい象徴的な絵葉書です。

 

明治末の東中洲「千両松」、手前は博多川

 

 次の絵葉書は「博多名松 千両松」の記述がある絵葉書です。手前は博多川、右端に写っている洋館は明治31年に完成した明治生命福岡支店で、同ビル跡地に現在も明治安田生命福岡ビルがあります。
 博多・東中洲の歴史を最も詳細にまとめた書籍に「博多中洲ものがたり前編・後編(咲山恭三著)」がありますが、この本をはじめ明治の博多を記した書籍に紹介されている情報では、この松は「千両松」ではなく福岡藩時代の奥村玉蘭の絵にも描かれた「京屋の松」という名称が一般的だったようです。
 京屋旅館の庭にあった大松は別名「臨水の松」という呼称も明治期に定着したようで、名付けたのは伊藤博文とのこと。隣接して開院した松浦医院に入院し病没した画家・青木繁が入院中に病室の窓からこの松をスケッチしたという逸話が記載されています。解説している書籍の多くに、明治生命の洋館と大松が写った写真が掲載されていますが、何処にも「千両松」という名称はありません。夭折した天才画家・青木繁が「千両松」と名付けたのか、それとも単なる印刷間違い(誤植)か、気になります。

 

福岡城(筑前)と印字された明治39年発行の「日本の城」シリーズ絵葉書の一枚

 

 印刷間違い(誤植)の象徴的な絵葉書が上です。天守閣があったか否かが議論されている福岡城、明治39年発行のこの絵葉書には立派な天守閣があり、解説には「福岡城(筑前)」とあります。最初に見つけた時は驚きましたが、冷静になって天守閣の形状を観察すると「福山城」である事が判りました。
 絵葉書の印刷は昭和初期まで福岡市や近郊で大量印刷することができず、和歌山や東京の印刷会社で刷られたものが多かったようです。地元の人が確認すれば間違いに気づいたのでしょうが、こういった間違いが時折あるのも絵葉書です。そのため「千両松」という記述も誤植ではないか、と疑っています。

 絵葉書に映る景観の中で、最も疑う視点が必要なものは、戦前や戦後復興期のカラー着色絵葉書です。路面電車や路線バスの塗色をはじめ、人工的に着色するために実際とは異なる色がつけられている事は珍しくありません。近年、NHKの番組をはじめとして古写真にカラー着色する試みは複数見られますが、福岡市の景観変遷を正確に把握するには将来的に同様の試みも必要だと思いますし、そのための資料収集や情報整理、解読は個人レベルではなく共同研究として進めていくべきだと思っています。
 次回は最終回「進化する絵葉書研究とまち歩き」です。




益田啓一郎


企画&執筆業の傍ら、古写真・アンティーク絵葉書や鳥瞰図絵師・吉田初三郎の研究など、景観や世相をテーマにした著作や写真集を多数編纂。昭和画像アーカイブ運営、NHK「ブラタモリ」など番組企画監修も多し。にしてつWebミュージアムの企画構成、博多カレンダー委員、博多祇園山笠西流五十周年史編纂委員ほか。