2015.4.30 まちとまなざし 
そこにある景色の全部

まちとまなざし1a

 

景観と文化について書いてほしいとご依頼いただき、「まちとまなざし」というタイトルにしてみた。このタイトルを思いついたときにぼんやり思い浮かべていたのは、昨年芥川賞を受賞した作家、柴崎友香の佳作「ポラロイド」(『ショートカット』所収)だ。

 

それは、こんな話である。主人公の女性カメラマンは、遠距離の彼氏がいたが疎遠になってしまった。その傷を抱えながらも、今は男友達の比嘉くんのことが気になっている。比嘉くんには彼女がいて、自分のことは友達としか思われていないのだけれど、でも比嘉くんと話す時間が一番楽しいのだ。物語のラスト、比嘉くんに久々に会った主人公は、唐突に「明日メキシコに行かへん?」と誘う。すると比嘉くんは嬉しそうに「行く。行くに決まってるやん」と応えてくれる。だからといって二人のこれからが約束されたわけではないのに、でも主人公はよほど嬉しかったのだろう。そこからのページが美しい。柴崎は、主人公にこう語らせるのだ。

 

 わたしはそこにある景色の全部を見た。御堂筋の何車線もある道路には銀杏の木漏れ日が差していた。まだ緑色の葉が、歩道にぱらぱらと落ちていた。自転車とバイクが隙間なく停められていた。大丸のショーウインドウにはクリスチャン・ディオールの新作のバックが飾られていた。その上の壁から飛び出している四角い時計は、十二時を少しだけ過ぎていることを道行く人に知らせていた。大丸の南館側へ渡る信号は赤で人が待っていて、御堂筋を渡る信号は青が点滅していて三人ほどが慌てて走っていた。御堂筋の両側に並ぶ大きいけれどそんなに高くはないビルの上に、真夏の青い空が見えた。銀杏並木の隙間に、銀行の看板が見えた。ポラロイドカメラを出してきて写真に撮ろうかと思ったけれど、今ここにしかない景色を全部見ることができるのはカメラじゃなくてわたしだと思った。比嘉くんは、わたしを見ていた。

〜柴崎友香「ポラロイド」より

 

カメラは、客観的な対象を主観のフレームで切り取る装置だ。そこで景色は、わたしのフレームの中で美しい瞬間として固定され、結晶化するだろう。一方「わたし」は、「そこにある景色の全部」と向き合っている。比嘉くんが「わたし」を見ているように、視界に映るものすべてが「わたし」を見つめ、都度関係を取り直しては、過ぎ去ってゆく。だから「わたし」も、カメラではなく、自分の目で、それらの景色を見つめ返すのだ。そんな風にお互いが見つめ返す交歓の只中で、「そこにある景色の全部」はわたしにとって「今ここにしかない景色」になっているのだし、そのかけがえのなさを通じて、そこにある景色たちは「わたし」を祝福してくれている。

 

小説に登場する御堂筋の景色が、都市景観の専門的見地から「正しい」のかどうか、僕はあまり関心がない。素敵な景色は、わたしたちを離れて客観的にあるのではない。国道沿いのファスト風土でも歓楽街でも、そこに暮らしや営みがある限り、専門的に正しくなくとも、また世間的に評判がよろしくなくとも、どんな景色であっても、わたしたちとの関係のあり方次第で、いかようにもその意味は変わってゆく。そうした人と景色との関係のあり方こそ、「景観」と呼び慣らわされてきたものだろう。

 

景観ということばには、そんなわたしたちと景色の豊かな交歓が息づいている。だから、福岡市都市景観賞もまた、「正しいまちなみ」のような専門的権威主義に(無論、景観の名の下に社会的排除を正当化する暴力にも)与することなく、福岡に住まうそれぞれの「わたし」たちと景色とが織りなしてきた営みを、丁寧に扱っている賞なのだろう。

 

 

たぶん、きっと、そうなのですよね?

 

 




山内泰


NPO法人ドネルモの代表です。人と社会のあいだに、新しい関係を見つけ出すことで、「あったらいいな」をかたちにする活動をしています。
http://donnerlemot.com/