2015.10.26 家族の風景 06
家族の風景が「まちの風景」に変わるとき

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これまで綴ってきたように、「景観」を学んでいたぼくは「風景デザイン」に出会い、最終的に「まちづくり」を掲げながら活動していくことになります。

その中で、徐々に大きくなった違和感が「まちづくり」における「家族」の扱いです。

シンプルに捉えると「家族」は「まち」の一部なので、その課題が「まちづくり」の対象になってもよさそうなのに、「まちづくり」の現場や学びの場では、なかなか話題に上がってこなかったのです。

それを裏付けるひとつが、合意形成の対象です。
「まちづくり」が対象としてきた公共事業の合意形成は、「家族」からなる「家庭内合意形成」を除いた「社会的合意形成」が前提とされてきた背景があります※1。

そもそも「まちづくり」は、1970年初期に、都市空間の計画・整備に代わる言葉として行政によって用いられたことにより、ひろがっていきます。その際に対象とされたのは主として「公共空間=官(行政)が管理している空間」でした。

つまり、制度的に私的領域からはっきりと区別された「公共空間」を対象に「まちづくり」が取り組まれてきた事実が、「家族」を基礎とした私的領域の排除に、少なからず影響したと思われます。

その後の「まちづくり」は、言葉が放つ曖昧さもあり、徐々に多種多様な使われ方がなされ「公共空間」に帰結しない取り組みもなされていきます。

しかし現在においても「まちづくり」を掲げた取り組みは、複数の人たちで「取扱いやすい」「社会的な(=公共性が高いと了解されやすい)」課題が「暗黙のうちに」設定されています。

このように「家族」が、慣習的に「公的領域」から排除されるのには、根深い原因があります。そのひとつは、以下の言葉に象徴されるように、「家族」が「公的領域」を規定する政治や制度とは無縁の価値からなると、一般的に理解されているからだと考えられます。

 

「家族という集団は、『人と人が愛し合い、一緒に暮らし、子を育て、病気になった家族や高齢の親の世話をする』。したがって、一見するとそれは、『私たちの日常生活であり、法律とは無縁のよう』である(二宮2007:40)」※2

 

しかし、実際は異なります。「家族」は公的な制度なのです。そして国家はその「家族」をつくることを促し、つくった人たちに対して「公的な保障(社会保障)」の権利を与えます。ある面において「家族」は公的権力によって閉じこめられている、とも言えるでしょう。

「家族」は、たとえば親族間殺人の高い割合や児童虐待対応件数の増加など「まち(公的領域)」の中でもとりわけ切実な問題を抱えています※3。であるにも関わらず「私的な問題」という理由のみで取り扱われなかったり、「ファシリテーターは第三者的振る舞いが大事」と学びながら、最も第三者が必要とされる「家族」に介入することは、ほぼありません。

「まちづくり」において「家族」を基礎とした私的領域が「まち」から区別され、排除される傾向は、ぼくにとってかけがえのない「橋の下」という私的な想い出の場が失われた事実と、強く重なっていました※4。

さて、この件については、政治学者である岡野八代が、示唆的な視座を提供してくれています。岡野は、「家族の領域」で適用されるモラルを「ケアの倫理」、「公的領域」のモラルを「正義の倫理」として整理し、「正義の倫理」を携えた「自律的な市民」は「自分と同等な者として異なる幸福を追求するひとと、共通の法律や規範に従うことが要請される」としています※5。

この指摘は「まちづくり」の現場に携わっている人なら少なからず実感できるのではないでしょうか。

たとえば、ワークショップ等では、共通のルールに基づいて自律的に意見交換することが要請されます。そもそもそこに参加している時点で、自らの意志を表明できた「自律的な市民」と言えるでしょう。同時に、その場に参加していない「市民」が、見えにくくなります。

また、この事実は特に「経営的視点」から捉えると望ましい状況と解されがちです。なぜなら、意志を携えている人、主体的な人、そういう人たちと機動力高く行動する方が効率的だし、経営的な成果が期待できるからです。

経営的視点が要求されるこれからの「まちづくり」においては、ますますこの傾向が支持されるはずです。自ら行動できる・やれる人、その傾向にある人たちが「まちづくり」において、つまり「市民」として見立てられます。

さて、それでは「まちづくり」の中で今後も「ケアの倫理」は必要ないのでしょうか。また、「ケアの倫理」に自覚的でない状況が、どのようなリスクをもたらすのでしょう。

岡野は以下のように言及し、「ケアの倫理」に無自覚であることに警鐘を鳴らしています。長くなりますが、大切な視点なので引用します。

 

「(…)公的議論の対象から、他者の助けを借りなければ自らの権利を主張しえない者たち、権利に気づくまで他者のケアが必要な者たちが『不可視化されてしまう』。しかも、もっと深刻なことは、『自律的な市民と考えられている者たちが、いかに社会的な制度と他者からの保護を受け、そこに依存し、ときに特権を享受しているかが、見えなくなってしまう』のである。(…)わたしたちが他者とのケア関係のなかでつねにすでに育まれつつ在る、ということが、社会を構想するうえで忘れられてしまうとき、『自律的でないと判断された人を、他者からのケアが足りないのではなく、自助努力が足りないのだ』として切り捨ててしまうような社会に、わたしたちは一歩近づくことになるのだろう。」※6:『』は著者が記載

 

さらに、「ケアの倫理」に無自覚であることは、経営面においてもネガティブに働くことがあります。

たとえば、「まちづくり」の現場において、合意形成が必要のないものまで過度に説明を求められたり、ロジカルに判断するべきがナァナァに蔑ろにされてしまったり… という局面はよくあります。

先程のように「家族」を「公的領域」とは無縁の価値と位置付けた結果、「家族」のメタファーと見立てられやすい「公的領域」〜たとえば、よりミクロな自治会等〜によく見られる例です。「家族である時点で美しい」という「幻想」に、ロジカルな判断や客観的な「正義」が、絡みとられていくのです。

また「家族」はいま、変化してきています。

例えば「平成26年 国民生活基礎調査」によると、1986年は一世帯当たりの平均世帯人員が3.22人で児童のいる世帯の割合が46.2%でしたが、2014年には2.49人で22.6%まで減少しています(ちなみに1950年代の平均世帯人員は5人程度)。

そして、1980年頃は「男性雇用者と無業の妻から成る世帯」の半数ほどしか見られなかった「共働き世帯」は増加し続けており、1996年あたりから「男性雇用者と無業の妻から成る世帯」を追い越し、さらに伸び続けています※7。

つまり、今まで子育てをはじめとした様々な営みを支えてくれていた家族の「人数」と用意されていた「時間」が、物理的に少なくなったのです。そして、子どもが少なくなったことにより、周囲で子どもや子育て経験者同士が支え合う機会や、子育てに理解がある人たちが減りがちであるとも言えるでしょう。以前よりも「家族だけ」では子育てしにくい状況に変化したのです。

また、高齢者の現状を見ても「家族」に過度の負担がかかっていることは理解できます。若年の貧困層が増えてきているために「家族」の家計を親である高齢者が支えている例が少なくありません。その蓄えのない子どもたちはいずれ高齢者になっていきます。そこで待ち受けているのは、脆弱な公的年金制度です。それでもなお「家族」が、責任を負うべきでしょうか。

つまり、従来まで「家族」が担っていた機能を「家族だけ」で担うのは困難になっています。

現代は、「家族」を「まち」で支えなくてはならない状況に変化したのです。あるいは「家族」のかたちを小さな単位で限定せずに、多様なかたちで「まち」にひらいていく必要があります。

「家族」は簡単に変えられるものではありません。どんな技術があっても、どんなにお金があっても、血のつながりは変えられないので。でも制度としての、つまり「公的領域」としての「家族」は変えられるのです。

そして、「家族」を変えるのが困難だったとしても、「風景」は必ず変えられます。「家族の風景」は必ず変えられるのです。

同じものが違って見えること。その揺るぎない事実が、どれだけ当事者の希望になるでしょう。その可能性が「風景デザイン」にあります。

風景は変わったのです。
家族の風景は、すでに「まちの風景」に変わりました。

わたしたちは、他者からケアされたおかげで生き延びたひとりの市民として、「まちの風景」の中で「家族」を見ているのです。

【連載「家族の風景」全6回を終了します】
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※1:池上さん、「川」は誰のものだと思いますか?桑子先生に入門!「社会的合意形成」第1回
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130422/247049/
※2:岡野八代(2009)「家族からの出発―新しい社会の構想に向けて」牟田和恵編『家族を超える社会学―新たな生の基盤を求めて』新曜社, p37
※3:警察庁(2013)「平成24年の犯罪情勢」によると、2003年以降、親族間による殺人事件(検挙数)が上昇傾向にあります。2013年は、総数の53.5%に至り、半数以上が親族間による殺人です。また、全国の児童相談所が2014年度に対応した児童虐待の件数(厚労省調査・速報値)は前年度比20.5%増の8万8931件で、過去最多を更新しています。
※4:家族の風景05「ちっぽけな風景との出会い」 http://f360do.jp/FUBA2015/archives/782
※5:※2と同じ,p46。岡野はGilligan Carol(1982)の思想を参考にしながら「ケアの倫理」を、具体的な状況の中で他者から発せられた声に応答することによって(他者を)傷つけないこと、危害を避けること、そのためにその他者の状態とおかれた文脈を注視すること、としている。
※6:※2と同じ,pp51-52
※7:平成26年版 男女共同参画白書「共働き世帯数の推移」 http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h26/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-08.html

 

参考文献
・二宮周平(2007)「家族と法—個人化と多様化の中で」岩波新書
・Gilligan, Carol, 1982, In a Different Voice: Psychological Theory and Woman’s Development, Cambridge: Harvard University Press.=1986 キャロル・ギリガン 生田久美子・並木美智子訳「もうひとつの声—男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ」川島書店
・ハンナ・アーレント(1994)「人間の条件」筑摩書房
・厚生労働省「平成26年 国民生活基礎調査」
・厚生省大臣官房統計調査部「厚生行政基礎調査 昭和28年」「厚生行政基礎調査 昭和34年」

 

[写真について]
山口県徳地の朝。毎年夏休みの3日間、「里親里子リフレッシュキャンプ」をここで開催している。今年も30名程の子どもたちと共に過ごした。例年、家族の風景を思索するかけがえのない機会となっている。photo by SAKAI Sakiho




田北雅裕


九州大学の教員です。
そのほかに、SOS子どもの村JAPAN 広報アドバイザー、ALBUS ディレクター、糸島市 市政アドバイザーなどもしています。http://trivia.gr.jp