2015.10.19 まちとまなざし 
すきまから、そのすきまから。

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ゴッホに「夜のカフェテラス」という絵がある。まちの一角のオープンカフェが眩いばかりにきらめいていて、その明るさにつられるように、星々が瞬く夜空は鮮やかな群青色に染まり、路地も紅葉に映える水面のよう。ゴッホはこの絵を描くのに、黒を用いなかったという。ゴッホのまなざしは人々の憩いを憧れ、そしてそれに応えるように、夜のカフェテラスが瞬く。この絵には、まなざしと景色のそんな交歓が息づいている。

この絵が描かれた1888年、ゴッホは「ひまわり」「種まく人」「黄色い家」など一連の代表作でキャンバスを黄色に染め上げている。そんな尋常ではない明るさの黄色が、人々が集うカフェを描くのにもふんだんに用いられた。それほどまでにカフェが明るく描かれているところに、画家がそうした人々の憩いに憧憬のまなざしを向けていること、同時にそうした営みから疎外されていることまで示唆されているだろう。

疎外されている者のまなざしを受けて、疎外している当のものが不思議な明るさで輝く。普通に考えると、これはあまり望ましくない、不健全な状況であるように思われる。当事者の疎外状況を改善し、社会的に包摂するのが筋だろう。ゴッホも良い感じに社会に包摂されていれば、あんな最後を迎えなかったのかもしれない。

そう思う一方で、そうした善意が見落としてしまう面もあるのではないか、とも思う。疎外と包摂の相克のうちに宿る不思議な明るさには、何かもっとあるような気がする。

と、ここまで書いてきて、七尾旅人の「夜、光る」を思い出した。「誰も疎外されちゃいけない」(『天使がおりたつ前に』)と歌う一方で、彼は、夜のまちの不思議な明るさを次のように歌っている。

 

 

イヤホンからは ノイズ混じりで
『小さな奇跡なら 今日のうちに
何度も出会うことになるよ』
ふたりのエクボ
カーテンが揺れて すきまから来る
ひどく速いものは、光。
コットンの武装、ワンピースにしみこむ
夜光の涙。
〜中略〜
イヤホンからは ノイズ混じりで
『子供達によって 東京全域に
夜光塗料が散布され…』
ふたりのエクボ
カーテンが閉じて すきまから来る
ひどく速いものは…?
『東京全域に 夜行塗料が散布され…』
なすりつけあう…ふざけて
すきまから…そのすきまから…
「速い…」
光。
七尾旅人「夜、光る」より

 

都市のなかでの人々の営みは、あまりに多様で複雑で、それぞれが自分とは関係がなく、お互いに無関心にある。そんな人々の群れが生み出す無数の光が、夜行塗料が散布されたかのように、まちに瞬いている。カーテンのすきまから漏れてくる、そんな「夜光の涙」に「何度も」出会うことになるのだ、と。

こんな繊細な光を見出だすくらいなので、何らかの疎外状況にあるのだろう。でもだからといって、この曲はその不幸を歌っているのではない。心許ないであろう歌い手のまなざしに、夜のまちは、子供たちの夜行塗料に彩られた瞬きで応えてくれる。そんなまなざしとまちの景色の交換に息づく「小さな奇跡」が、ここではひたすらに祝福されている。

自分に無関心で無関係な人々の集積としてのまちが、その無機質さゆえに、不思議な明るさで瞬いているように見える。そしてそのことが、人や社会とのつながりとは別のしかたで、このまちにいる自分のあり方を支えてくれている気がする。

いつの日か、社会に自らを適切に位置づけ、もはやかつての心許ない疎外のまなざしでまちを見なくなったとしても、そしてそのとき、もはやまちが不思議な明るさで瞬かなくなったとしても、それでも、ある一時期に、自分に仄かな光が差し込んできたという「小さな奇跡」は、かけがえがなく、とりかえしがつかないものになっているはずだ。だから、忘れられない。景観とは、そういうものなのだと思う。

福岡がこれからも、誰かにとって、そんな光に彩られるまちでありますように。

 
※夜に瞬く博多駅前の写真は、前回に引き続き、佐々木悠史さん(NPO法人アカツキ)の撮影による。本稿もまた、佐々木さんのこの写真にインスパイアされて書かれた。多謝!




山内泰


NPO法人ドネルモの代表です。人と社会のあいだに、新しい関係を見つけ出すことで、「あったらいいな」をかたちにする活動をしています。
http://donnerlemot.com/