2015.6.29 まちとまなざし 
よく晴れた日だった。遠くまで見える。

yamauchi

福岡に来て、10年が過ぎた。最初に住んでいたのは吉塚だ。その頃の僕には友人も金もなく、したがってほとんど家にいた。息抜きといえば、散歩である。よく行っていたのは福岡空港の滑走路で、フェンス越しに飛行機が着陸するのを、飽きることなく、ただひたすら眺めていた。

 
空港までの道すがら、公園の側を通った。当時その公園に住んでいたおっさんも、飛行機を見ていたらしい。結構な頻度でやって来る僕が気になったのか、一度話しかけられたことがあった。「夕暮れになると、夕闇に飛行機が落ちていくようで、恐ろしい感じがするけど目が離せん」と話してくれたので、後日、夕暮れ時に見てみた。夕映えが闇を照らし出し、その翳りの穴へ、轟音と共に巨大な塊が吸い込まれていく。あのフェンス越しからの景観に勝るものを、福岡にあって他に知らない。そんな美しさと戦慄が夕暮れの空港にあることを、そして夕映えに照らされた闇があることを、教えてくれたのは彼だった。

 
そういえば、最近読み直している谷崎も「灯に照らされた闇」について書いている。

 

もう数年前、いつぞや東京の客を案内して島原の角屋で遊んだ折に、一度忘れられない或る闇を見た覚えがある。何でもそれは、後に火事で焼け失せた「松の間」とか云う廣い座敷であったが、僅かな燭台の灯で照らされた廣間の暗さは、小座敷の暗さと濃さが違う。ちょうど私がその部屋へ這入って行った時、眉を落して鉄漿を附けている年増の仲居が、大きな衝立の前に燭台を据えて畏まっていたが、畳二畳ばかりの明るい世界を限っているその衝立の後方には、天井から落ちかゝりそうな、高い、濃い、たゞ 一と色の闇が垂れていて、覚束ない蝋燭の灯がその厚みを穿つことが出来ずに、黒い壁に行き当ったように撥ね返されているのであった。諸君はこう云う「灯に照らされた闇」の色を見たことがあるか。

〜谷崎潤一郎『陰影礼賛』より

 

灯に照らされてはじめて、鈍色の頭をもたげる闇がある。若い頃読んだ時は、古き良き日本を知る「年寄りの愚痴」だと思っていたが、どうもそんな単純な話ではないらしい。ここで谷崎は、闇の陰影にかたちをあたえる灯の意義を、読者に問うているのではないか。

 

闇を照らし出す灯は、闇を打ち消す光とは違う。すべてを明るく見渡せるよう遍く差し込んでくる光は、闇を都合の悪い障害として一掃し、その存在をなかったことにしようとする。そんな光の暴力に与するのではなく、闇を照らし出す灯を頼りに、陰影の襞に寄り添ってゆくまなざしは、多様性に開かれてゆくべき都市景観でも肝要となるはずだ。

 

だが実際には、「安心・安全」の名の下に透明化を促進するまちづくり、「環境浄化」に貢献するアートプロジェクト…などなど、善意に満ちた光が、翳りをふんだんに含む豊かさとは真逆の方向に差し込んでいて、その眩さのなか、いよいよ陰影は見えなくなってゆく。そんなこれからのまちで、僕が教えてもらったあの景観は、灯に照らされた闇は、どこに息づくことができるのだろう。

 

ちなみに今回の写真を撮ろうと思って、鉄道を奉る神社がある駅ビル屋上に行ってみた。展望台は博多口方面に開かれていて、右手にまっすぐに延びる道路は海へと至り、眼前に立ち並ぶ商業ビル群の彼方に山々を望む。これがみんなに見てもらいたい福岡の景色なのだろう。一方、その反対側、吉塚につながる筑紫口方面に展望台はなく、高い壁が立ちはだかっている。壁を彩るのはアートプロジェクトで制作されたタイル群で、著名なアーティストの描いた幹や枝に市民の描いた葉が生い茂り、鳥や虫が息づいている。見渡す限りの有田焼の青。見上げると、青空。

 

よく晴れた日だった。遠くまで見える。
でも、彼の暮らしていたところまでは見えない。




山内泰


NPO法人ドネルモの代表です。人と社会のあいだに、新しい関係を見つけ出すことで、「あったらいいな」をかたちにする活動をしています。
http://donnerlemot.com/