2019.3.22 風景にかかわる 
風景/景観

・・・是ほど親密に我々の生活に

   織り込まれて居る物を、まだ多くの人は

        自分のものとまで思って居ない・・・。

                                                                       柳⽥國男

 

「風景と景観の違いを考えた事ある?」

 

転職して景観調査や景観計画の仕事をはじめたばかりの自分にとって、友人の質問に軽い衝撃を受けたのを良く覚えています。大学では、土木工学科に所属していたものの景観の授業があったわけではないので、そのような事は全くさっぱり考えた事もありませんでした。

 

『風景』という言葉の意味は意外と曖昧で、英語に訳しただけでも、a landscape、a scene、scenery 、a view、a sightとなんだかたくさんありますが、どの訳も人の視覚に関連するものとなっています。職業柄”landscape”という言葉を最も良く使いますが、「land=土地、scape=視野」という意味です。しかしながら”landscape”という言葉は、『風景』よりも『景観』と訳されることの方が多いようです。『景観』というと人工物の景色(都市景観)や環境の眺めを客観的、分析的に捉える事(景観工学)を言う人もおり、なんだか堅苦しい感じがします。

 

一般的に『風景』というと、富士山とか尾瀬とか天の橋立のような名所、名勝、いわゆる美しいものを連想しがちですが、『風景』という言葉を辞書で調べると、「①目の前にひろがるながめ。景色。②その場のようす。情景。」 というように記されています。私たちが会話で口にする『風景』というものには、名所や名勝以外にも「練習風景」とか「食卓の風景」、 のような普段の日常の生活にある身近な一場面も含まれています。また風景に悪評価を下す語の中の一つに「殺風景」というものがあります。これを辞書で調べると、「①景色などが、単調で趣のない・こと(さま)。②おもしろみがなく、興ざめのする・こと(さま)。」ということで、視覚的な事象以外にも判断基準があるようです。つまり『風景』の素材はもっとどこにでもあるもので、どうやら私たちがそこに何かを感じることで、『風景』と呼んでいるようにも思えます。

 

その何かを言葉で表すと非常に難しいのですが、『風景』と『景観』の字の違いにヒントがあるようです。二つの言葉に共通しているのは「景」という字です。これは光を意味するのですが、なぜ光かというと人間の眼は光の屈折などでものの形や色を判断するからだそうです。ですから「景」には視覚的な意味合いが込められているようです。「観」はまさしく観るという字でこれも視覚的な意味合いが強いと思います。しかし「風」は見ての通り視覚を表す語ではありません。『風景』という言葉は元々中国語らしく、「風」は、眼には見えないけれど実体のあるものの例えとして使われていたようです。例えば「和風」「洋風」の「風」は様式、「風刺」の「風」は社会(世の中)という具合です。(確かに様式も社会も眼には見えないけれど実在します。)『風景』の「風」もまた眼には見えない何かを例えているような気がします。

 

 

そのような事を考えている頃、景観の専門家である中村良夫先生【※1】が座長の委員会に関わる事になりました。先生は、現代社会では、人々が生活にこだわりをもたなくなって風景が乱れたのではないかとおっしゃっていました。それは軒先に植木をおいたり、家の前の路地を掃き清めたりする行為で、時代とともにだんだんと失われたのが原因ではないかという話だったように記憶しています。公共性が時代とともに変わってきたせいか、「みんな」の風景であるはずが、「誰のものでもない」風景になったのかもしれません。

 

外部を自分の庭のように楽しむ。住む人の顔がみえる路地は景観よりも風景という言葉が似合う。

 

冒頭の文章は、屋外広告物の調査をしているときに国土交通省の景観のサイト【※2】でみつけたもので、日本の民俗学の創始者の柳田國男の言葉だそうです。おそらく『風景』についての事であり、私たちが普段生活している身の周りにもたくさんと風景があるのに、人々が当たり前にありすぎてその存在を忘れているのではないか?という問いかけではないでしょうか。

 

風景というのは「心象風景」(心に残る風景)「原風景」という言葉があるように、我が子のように愛着を感じたり、昔の思い出のように懐かしんだりと、人々がその眺めに何か想いを持ち、気にすることで、生まれてくるのではないでしょうか。

 

景観調査、計画の仕事を経て、もう少し身体感覚的なスケールを考えるランドスケープアーキテクト【※3】になりました。図面や模型、CGを使いながら将来の敷地の姿を想像します。より身近な『風景』に近づいた気がしています。離れていても思い出せる、愛着ある場所になっているか。建築や土木よりも随分無目的にも思えるフィールドで、どう見えて、どう使われていくのかはなかなか興味がつきません。(そう思うと図面の端っこまで見逃せない!)

 

昔住んでいた家からみた風景。誰のものでもないのではなく、みんなのものと思って考えたいところ。

 

ランドスケープアーキテクトの仕事は訳すると『景観』の設計かもしれませんが、本当は『風景』にかかわりたいのかもしれません。設計は形を考える仕事ですが、実は竣工した瞬間はいまいちピンときていなかったりもします。むしろ、多少の時間を経ても、いつか誰かが、パシャッと切ってくれた瞬間の方が、その誰かの『風景』にかかわれたと実感するのかもしれません。

 

【※1】東京工業大学名誉教授。広島の太田川の護岸や茨城の古河総合公園等の設計者。主な著書に「風景学入門」等があります。
【※2】今はもうありませんが、アメリカの景観裁判の判決文等も記載されていて粋なサイトだなぁと当時はえらく感心したものです。
【※3】セントラルパークの設計者であるオルムステッドによって最初に使用された言葉。広場、公園、建築外構等の専門の設計者のこと。



浅田 英司


1975年福岡生まれ。
農業土木コンサルタント、交通計画事務所、土木デザイン事務所等を経て、
福岡のランドスケープデザイン事務所に勤務。登録ランドスケープアーキテクト。