2016.10.31 古写真・観光絵葉書にみる福博景観史 
定点観察の意味

大正初期以降、福岡市の観光絵葉書の多くを撮影・発行した大崎周水堂の初代・大崎周水氏が撮影した写真には、その時代の最先端の景観が「観光名所」として収められています。日々変化する景観を記録するかのように、大崎氏は毎年新しい写真を絵葉書にして発行しました。その多くは、同じ場所から撮影されており、今となっては貴重な定点記録写真です。今回は大崎氏が撮影した絵葉書を中心に、同じ場所(定点)で撮影された写真で景観の変化を辿ります。(文中の絵葉書・古地図はすべて筆者所蔵)

 

発展する東中洲の変遷

最初の比較は東中洲(中洲)です。発展する福岡市の象徴的景観として、ほぼ同じアングルで撮影された絵葉書が50年以上発行されています。
1枚目は現在の西中洲・水上公園向かいの大同生命ビルの場所に完成した煉瓦造りの洋館「大同生命九州支店」階上から撮影された写真です。1912(明治45)年2月に同ビルが完成した頃の東中洲には高層の建物は無く、木造建築が密集しています。旅館や料亭に加え、劇場や映画館が集積し始めた頃の景観です。

 

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大正5年頃の東中洲と西大橋

 

2枚目は大同生命ビルの東側に1920(大正9)年に完成したカフェー・ブラジル(のち水上閣)の階上から撮影された絵葉書です。現在は親和銀行のビルが建つ場所から撮影された写真では、西大橋がほぼ正面に来ます。1923(大正12)年7月に完成し戦前の名物だった福助足袋の大広告塔が写っています。左端には「カフェーパウリスタ」の看板が見え、ここで1922(大正11)年12月24日に来福したアインシュタインの歓迎会が開かれました。

実は東中洲では同じ年の1月に「東中洲大火」と呼ばれる大火災が発生し、博多商業会議所や松葉屋呉服店など53戸が全半焼しました。この絵葉書はそれから約1年後の復興ぶりを写したもので、建替が進み一気に近代化してきます。
毎年のように発行された絵葉書を時系列に並べることで、景観の変化だけでなく人々の記憶や資料に遺りながら短期間で消えていった銘店・施設などを明確に確認できるツールとしても機能します。

 

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大正12年末、大火から復興期の東中洲

 

3枚目は西大橋の架替工事が終わり、1934(昭和9)年4月に開店したカフェ・ブラジレイロが西大橋の袂に見えます。その後方には1925(大正14)年に開店した玉屋百貨店が見え、映画館やカフェーが建ち並び、戦前の最も活気があった頃の景観を細かく読み取ることができます。

 

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昭和11年頃の東中洲と西大橋

 

4枚目は1945(昭和20)年6月19日の福岡大空襲で壊滅的な被害を受け、復興が進む東中洲の1955(昭和30)年頃の写真です。同年、西大橋の北側に日活ホテル、南側に花関ビルが完成して大きく景観が変化した頃。那珂川にネオンサインが映り込む夜景とともに歓楽街・中洲の象徴的景観となりました。

 

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昭和30年頃の東中洲と西大橋

 

5枚目は1964(昭和39)年頃の景観です。花関ビルは建設当時の5階建から、1956(昭和31)年12月にKBC九州朝日放送が久留米市からの本社移転入居に合わせて同年春から工事が始まり、年末には8階建に増築されます。同ビルの広告塔はKBCテレビが開局する1959(昭和34)年春まではKBCで、以降は永く日立の看板が掲げられました。花関ビルには2000年代初めまでKBCラジオの施設が入居するなど、九州初のメディアビルとして知られました。

 

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昭和39年頃の東中洲と西大橋

 

6枚目は1984(昭和59)年頃の景観です。現在の毎日会館階上から撮影された写真ですが、日活ホテルは旧国際ホテルの敷地を合わせて博多城山ホテルに建替わり、福岡市内線の路面電車は地下鉄建設工事に合わせて姿を消し、西大橋も架け替えられています。水上公園はこの写真の前年に再整備され、モニュメント「風のプリズム」も登場しています。この写真の時代、中洲には映画館が20館ほど存在しましたが、平成に入ると次第に減少し現在は中洲大洋劇場のみとなっています。

 

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昭和59年頃の東中洲と西大橋

 

次は天神・明治通りの景観の変遷がわかる絵葉書を数点紹介します。1枚目は今秋開業80周年を迎えた岩田屋の屋上から撮影された1936(昭和11)年頃の景観です。
県庁や東中洲の方向を望んでいますが、千代田生命ビルが建設中ですので、調べればさらに撮影時期の絞り込みが出来そうです。この頃から明治通り(当時は福岡市内線の貫通線が通り「貫線」と呼ばれた)沿いには、銀行や生命保険会社が多く立ち並んでいます。

 

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昭和11年頃の岩田屋屋上から東中洲方面を望む

 

2枚目は終戦後、1950(昭和25)年頃の景観です。福岡大空襲で焼け野原が広がった一帯で、少しずつ復興が進み始めた頃の町並みですが、水鏡天満宮や赤煉瓦文化館のある現在の天神一丁目2区界隈は焼け残った建物も多く、それらがよく分かる写真です。

 

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昭和25年頃の岩田屋屋上からの光景

 

3枚目は1956(昭和31)年頃の景観です。占領軍による統制が解除され昭和27年以降、ビル開発ラッシュとなり様相が激変する頃の光景です。右端に見える1954(昭和29)年完成の西日本ビル屋上には、福岡市初と思われる屋上ビヤガーデンも見えます。同ビル地下には天神地区初の地下商店街もお目見えしていました。

 

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昭和31年頃の岩田屋屋上からの光景

 

最後の絵葉書は1962(昭和37)年頃の明治通りの景観です。福岡ビルが1961(昭和36)年末に完成し、岩田屋屋上からの景観が遮られたため、1960(昭和35)年に完成した天神ビル階上から撮影されています。

高層ビル化が進む明治通り沿いを写した絵葉書は1970年代に入ると激減し、より道幅が広くゆったりとした景観を感じることができる渡辺通り沿いを写した写真が多くなるのも、景観美を優先する絵葉書ならではの特色です。

 

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昭和37年頃の明治通りの景観

 

この頃の絵葉書は「パノラマ総天然色」と呼ばれ、白黒写真に機械彩色でカラー再現されたものが多く、最後の写真もそんな一枚です。  福岡市内線の路面電車はこの当時マルーンとベージュの塗色に統一されていましたが、この絵葉書では戦後復興期の緑色の塗色のまま再現されています。同様に路線バスもオレンジ色に塗られており、実際の色味とは異なります。
これは、絵葉書の印刷所が福岡県内に無く多くが関西などで印刷されていて、製版担当者が現地で現状確認をしていないため(古い資料のままに着色印刷)に起こる珍現象ですが、それを知った上で絵葉書を資料として見る必要性も感じさせてくれます。  1970年代になると製版印刷技術の進化にともない着色絵葉書は姿を消し、正常で綺麗な印刷のカラー絵葉書が主流となります。これを知っていないと、絵葉書に写るすべての情報が正しいと勘違いする事例も起きそうです。

次回は「古写真・絵葉書を活用する」と題して、私がこれまでに関わった書籍やテレビ番組などにおける古写真・絵葉書の活用事例の一端をご紹介します。(文中では中洲を旧地名「東中洲」の表記で統一しました)




益田啓一郎


企画&執筆業の傍ら、古写真・アンティーク絵葉書や鳥瞰図絵師・吉田初三郎の研究など、景観や世相をテーマにした著作や写真集を多数編纂。昭和画像アーカイブ運営、NHK「ブラタモリ」など番組企画監修も多し。にしてつWebミュージアムの企画構成、博多カレンダー委員、博多祇園山笠西流五十周年史編纂委員ほか。