2016.9.19 古写真・観光絵葉書にみる福博景観史 
都市の記憶をたどる

古い町並みや景観が貴重なアンティーク絵葉書ですが、開業記念や博覧会記念の絵葉書が発行時期を特定できるのに対して、一般に市販された私製絵葉書の多くは発行時期の記載がないため、まず内容を観察して発行時期を特定しなければ資料的な価値は半減します。今回は絵葉書を活用して景観変遷を読み解くコツについてご紹介します。(文中の絵葉書・古地図はすべて筆者所蔵)

 

絵葉書の発行時期チェック

日本では明治20年代に絵入り葉書の発行が始まり、郵便制度の浸透とともに普及します。1900(明治33)年10月1日に私製ハガキの発行が正式に認められて、一気に絵葉書ブームが到来します。しかし、逓信省が発行する官製ハガキや切手と違って市販の絵葉書は発行時期が記されているものが少なく、宛名面の仕様の変化や写っている景観から大まかな発行時期を特定します。

 

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大正初期の絵葉書「宛名面」。通信文スペースが3分の2時代のもので「郵便はかき」の文字は右から左へ表記。

 

絵葉書の宛名面には当初、通信欄がありませんでした。「はかき(ハカキ)」表記も右から左へ読む昔の記載です。挨拶文の書き込みができないと苦情が集まり、1907(明治40)年3月28日以降は宛名面の3分の1以内の通信文が認められ、絵葉書の宛名面も仕様が変わります。1918(大正7)年3月1日には宛名面の通信文記載が現在と同じく2分の1に拡大され、1933(昭和8)年2月15日以降は「はかき(ハカキ)」表示が「はがき(ハガキ)」になります。さらに戦後になると「はがき」文字の表記が左から右へ読む現在と同じ仕様になります。

 

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昭和8年頃の絵葉書「宛名面」。通信文スペースが2分の1となり、「郵便はがき」表記となっている。

 

これとは別に印刷技術も時代ごとに変化しており、石版(リトグラフ)やコンニャク版(写真)を活用したものから平版(オフセット)印刷へと変わります。平版導入以前は大量印刷はできず、絵葉書の発行枚数は数百から千枚程度です。また、明治から大正初期にかけてはカラー写真印刷の技術が確立されておらず、白黒写真に一枚ずつ着色する「手彩色」絵葉書が大ブームとなり、女性の人気職業だった時期もあります。一枚ずつ着色するわけですから当然、その仕上がりには格差が発生し、より綺麗な絵葉書を求めるコレクターも誕生します。

大正後期になると製版段階でカラー表現ができるようになり、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で東京に集中していた印刷会社が壊滅すると、復興のなかで印刷機械の入れ替えが一気に加速し、現在まで主流である平版(オフセット)印刷機の導入が全国的に進み、絵葉書も大量印刷が可能になります。オフセット印刷された印刷物は、虫眼鏡でチェックすると網点となっています。

 

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大正初期の西中島橋の絵葉書。白黒の絵葉書に筆でカラー彩色した「手彩色」手法で発行されたもの。中央に現在は赤煉瓦文化館となった日本生命九州支社が見え、当時最先端の建造物だった。

 

カラー製版技術が確立された昭和10年前後に印刷技術は戦前のピークを迎え良質の絵葉書が多数発行されますが、戦災によりすべてが壊滅。戦時中や戦後に発行された絵葉書は紙質や印刷が粗悪なものも多く、戦前ピーク時の印刷レベルが復活するのは昭和40年代の高度成長期になってからです。これを知っていれば、大まかな絵葉書の発行時期の特定はできます。

ここで勘違いが多い事例をひとつ。使用済み絵葉書の宛名面に消印があった場合、容易に発行時期の絞り込みができるのですが、写真の撮影時期の特定ができたわけではありません。昭和30年代に写真機(カメラ)が一般人に普及するまで、写真を撮ること自体が珍しく機材やネガ・プリント(原版)も高価なため、一度撮った写真を何度も絵葉書などの印刷物に使い回すことも多く、消印イコール撮影時期と断定はできません。写っている内容を細部までチェックする工程は必須となります。

 

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大正後期の天神橋を望む絵葉書。製版でカラー写真を再現するようになった時期の発行。水上公園はまだ無い。

 

福岡市の絵葉書発行元

戦前、各地で絵葉書を発行販売していたのは地元の書店や絵葉書専門店でした。大正初期には福岡県内の多くの町村に絵葉書専門店ができ、火事や列車事故、大水害などのニュース絵葉書に加えて地元の記念行事や新店開業のお知らせなども絵葉書で発行されていました。

 

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昭和11年頃の水上公園と西大橋・中洲を望む絵葉書。 発行は大崎周水堂、当時福博一の繁華街となっていた 東中洲には福岡玉屋やカフェ・ブラジレイロも見える。

 

福岡市の場合、明治期には尾島筑紫堂や天泉堂など5社程度の発行元があったようですが、大正期になると大崎周水堂が台頭し、1913(大正2)年の桜島大噴火のスクープ写真や歌人・柳原白蓮の法廷裁判写真を撮影した、九州初の報道カメラマン・大崎周水氏が経営する九州写真通信社(のち大崎周水堂。現在、博多・土居交差点角に画材ガクブチとして盛業中)が発行する絵葉書が一人勝ち状態となります。つまり大正期以降、大崎氏が没する昭和30年代まで、福岡の町並みが写った観光絵葉書の多くは大崎周水堂で撮影・発行したものです。

大崎周水氏の撮影する町並みの絵葉書は、当時最新のスポットを8枚組のセットに収めて凡そ一年ごとに発行されましたが、その内訳を時代とともに見ていくと観光名所4枚に町並みが4枚というバランスになります。大正初期のセット内容の一例を紹介すると、観光名所として九州帝国大学・東公園・西公園・福岡県庁(西中洲)、町並みとして博多駅・呉服町・土居町(川端通)・東中洲(福岡県庁前)というパターンが基本です。これが昭和初期になると東公園・西公園・水上公園(御大典記念公園)・大濠公園に土居町(川端通)・東中洲・西大橋・天神町という基本パターンに変化し、オフセット印刷時代になると8枚組から16枚組セットになり町並みを多く含みます。

 

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昭和8年頃の天神交差点と電車通り(現・明治通り)を 望む。右手前は初代福岡駅、中央は九鉄マーケット、 その後方は福岡郵便局。

 

大崎氏はその時代の最先端のお店や構造物を絵葉書で紹介しながら、町並みの変化を同じ場所から定点で意識的に撮影しています。東中洲に福岡玉屋が開店して以降は玉屋の屋上からの展望を、岩田屋が開店して以降は岩田屋屋上から電車通りの展望をという具合に、メインストリートの雰囲気を伝える構図の写真が多くなります。これらを時系列に並べることで、福岡市中心部の景観がどう変化したかを知ることができるわけです。

 

次回は「定点観察の意味」と題して、大崎氏の撮影した絵葉書を時系列で紹介して景観の変遷を読み解きます。




益田啓一郎


企画&執筆業の傍ら、古写真・アンティーク絵葉書や鳥瞰図絵師・吉田初三郎の研究など、景観や世相をテーマにした著作や写真集を多数編纂。昭和画像アーカイブ運営、NHK「ブラタモリ」など番組企画監修も多し。にしてつWebミュージアムの企画構成、博多カレンダー委員、博多祇園山笠西流五十周年史編纂委員ほか。