2016.3.3 景観計画をもってまちに出よう 
あまり知らない 離島の景観

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今回は、海浜ゾーンに出かけてみました。

海浜ゾーンは、博多湾に面するウォーターフロントのうち、ベイサイドプレイスからアイランドシティまでの港湾部を除くエリアが中心となっています。福岡市の景観の中でも山の辺・田園ゾーンとともに、自然的な環境との関わりが強いところです。

景観計画の景観特性では、「海の中道、志賀島、玄界島、糸島半島、生の松原、能古島などの緑が大陸との交流の歴史の源となる博多湾を囲み、水面と一体となって福岡らしい景観を形成、博多湾からの眺望や博多湾への眺望は福岡を代表する眺望景観」と書かれています。

海浜ゾーンは、「博多湾の眺望と広がりある景観の保全、自然との調和、海浜や緑地の保全」が景観形成の作法として示されています。

今回、私が、スポットをあてた場所は、博多湾ウォーターフロントを想定した海浜ゾーンのなかでも異端の景観となる離島です。

皆さんは、福岡市に2つの離島があるのをご存知ですか?

一つは、玄界島、そしてもう一つは、小呂島です。

景観計画区域のゾーン区分では、便宜上、玄界島の左斜め上にありますが、小呂島は、壱岐と同じくらいの緯度に位置する、福岡市最西最北端の島なのです。ぜひ皆さん、地図検索で探してみてください。天気の良い日には、壱岐・対馬が眺望できます。

 

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壱岐への眺望

 

 

残念ながら、景観計画の特性の中では、「など」の中に、ざっくりと入れられています。

なぜなら小呂島は、福岡市唯一の都市計画区域外というエリアで、景観計画、都市計画マスタープランといった市街地整備系の計画書の中には、なかなか登場しにくい場所なのです。

そんな小呂島は、海岸線延長3.3km、0.43 km²に人口約180人が暮らす小さな島です。

福岡市の約150ある小学校区の中でも、最も小さな校区になります。

小さいけれど、漁業という「なりわい」によってコミュニティのつながりが濃密で、島民が大家族のように暮らしています。

小呂島が、最初に歴史の舞台に登場するのは、鎌倉時代。
博多の商人「謝国明」が宗像大社の社領であった島に対して、領有権を主張したしたことで領地争いになりました。中世の小呂島は、海上交通の要所であったことが伺えます。

江戸時代には、福岡藩の学者であった、貝原益軒が3年間、小呂島に追放されています。

古事記にでてくる、国生み神話で知られる最初の島である於能碁呂島(おのごろじま)が、実は、小呂島であったという説も一部ではあります。※諸説あり

 

小呂島は、能古渡船場から市営渡船で65分(姪浜から北西約40km)のが玄界灘の真ん中に浮かんでいます。

シーサイドももち周辺の海浜ゾーンの都市的な景観とは、対照的な景観です。

 

 

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博多湾からのシーサイドももちへの眺望

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小呂島から福岡市内への眺望
※左の島影は、玄界島

 

 


 

玄界灘に囲まれた小呂島は、自然が刻む時間の中で培われた生活や文化によって形成された独自の文化的な景観があります。

その幾つかを紹介しましょう。

小呂島は、1年のうち8ヶ月を団体漁(旋網漁)で、一体となって漁をします。この団体漁という仕組みが、小呂島の結束力を強めています。5月の初出漁では、島民総出でこの年の大漁と無事を祈ります。

 

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団体漁の初出漁

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漁から戻ると、ハマで飯を食う

 

 


 

小呂島には、海女さんがサザエ漁をしています。

 

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サザエ漁から帰ってきた海女さん達 みんな元気

 

夏の日差しを利用して、イカを干します。

 

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イカを干す風景は、この時期の風物詩

 

基幹産業は、島の漁師全員で行う、旋網漁です。

 

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網を引く網船
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漁から戻ったら、ハマで網を繕います

 

 



 

小呂島からの眺望景観は、360°水平線です。
玄界灘の水面を、太陽は、時を刻むとともに海を染めます。

 

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朝、海が黄金に染まります

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昼、海が銀色に輝きます

 


 

昭和6年から昭和15年にかけて、陸海軍共用の要塞が、築かれ陸軍約300人が駐留していました。旧日本軍の遺構も残り、海上防衛の要の一つであったことも伝えています。
※遺構のある場所は、私有地になります。無断での立ち入りはご遠慮ください。

 

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砲台の跡

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旧日本軍が整備した軍道

 

 

 

小呂島には、博多の山笠の流れをくむ、小呂山笠があります。7月15日の早朝、山が島を駆け抜けます。こうした祭りも、島のコミュニティのつながりを強くしています。

 

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急な坂道を駆け下ります

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七社神社に、祝いめでたを奉納

 


 

また、山笠の「祝いめでた」 小呂島にも「小呂祝いめでた」が伝わっています。その歌は、博多の「祝いめでた」と同じ歌詞もあれば、小呂バージョンといえる部分もあります。

 

その歌詞には、島の自然や文化的な資源が歌いこまれています。

 

<祝いめでた六番>

祝いめでたの 若松さまよ 若松さまよ 枝も栄えて 葉も繁る さても見事な薬師堂の杜よ 薬師堂の杜よ 枝も栄えて 葉も繁る 沖のとなかに 茶屋たてて 茶屋たてて 上り下りの船を待つ

 

「沖」といえば「漁場」。「のぼりくだり」といえば、天皇が当時住んでいた京都へ向かうことを「のぼり」、逆方向を「くだり」といっていました。ここでは、「沖のとなかに茶屋建てて」とは、「小呂島に家建てて」の意味でしょう。 江戸時代、小呂島に移住した第一世代が、自分たちの家を「茶屋」と表現し、沖を行きかう回船が、小呂島に寄るのを楽しみ にしていた様子をあらわしたものなのと想像されます。
今では、沖を行く船は、変わりましたが、昔と変わらない、暮らし、文化が伝わっています。

 

図1

 

玄界灘という大自然に囲まれた、小呂島には、豊かな自然環境やなりわいや日々の暮らしによって、長い年月の中で形成された、文化的な景観があります。
小呂島の文化的な景観は、子どもたちにもきちっと引き継がれています。

 

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三番叟の練習

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万年願で、三番叟を奉納

 


 

機会があったら一度、訪れてみませんか?
島の未来、子どもたちの未来 360°視界良好! 小呂島へ

 

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矢舖雅史


広島県の瀬戸内海に浮かぶ島に祖を持つ。東京で都市計画コンサルタントに勤務し、様々なマスタープランの策定に関わる。福岡市に異動後、市民参加のまちづくりを経験し、現在は、ボランティアセンターの職員として勤務。